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僕もよくやっていたSNS。表面上は特別なものはない僕でも「いいね!」を貰えると、自分が認められた気がして嬉しくなり何かしらネタを探しては投稿していた。そのたびにちょくちょくと携帯を触ってアプリを開いては「いいね!」の数に一喜一憂していた。今は自分にとって無駄と思えたり、不要だと思える情報をシャットアウトする事で、頭の中が整理できるとネットで見つけた情報を鵜呑みにしてアプリケーションを開かないでいる。

また、そうやって大衆の群がるSNS断ちを決行できた自分が特別な存在なきがして少し高尚な気分に浸り、そしてSNSをやっている人を少し小馬鹿にしていた。

SNSの走りであるFacebookは元々大学内の学生が交流を深める為に作られという。本来の使い方で言えば、人々の交流を促進させ価値を共感するためのツールのように思える。しかし現在のSNSは、自信がある瞬間、富がある瞬間、幸福がある瞬間、悦にひたっている瞬間、自分が一番輝いている瞬間のみが多くアップロードされ、不特定多数から貰えるいいね!で承認欲求を満たす為の道具になっている。

そんなSNSから距離を置けたことに当時の僕は価値を覚えていた。

しかしどうだろう、SNSを辞めた僕がどんな日々を過ごしているか思い返してみると、特別なことがない日常をつまらないと思い込み、楽しい何かが起こる可能性が高い週末を首を長くして待っているではないか。そして楽しく週末を過ごせばまたつまらない日常が早く過ぎることを願っている。

もしかしてこの状況は、形は違えど本質的には僕が小馬鹿にしていた「SNS」をやっている時と変わらないのではないか?他人に見せていないだけで、つまらないと決め込んだ1日1日を無駄にしてはいないか?

僕はこの疑問から、現在のSNSでの弊害は承認欲求を得るために大切な毎日を軽視しすぎるようになったことじゃないかと考えた。もちろん自分をランク付けしてもらおうと他人から価値をつけてもらう人々も問題だ。自分にランクなんてないし、価値は自分で創造するものである。しかし有限である時間を早送りしてでも価値があると信じ込んでいるSNSに使える時間だけに注力するのもいかがなものかと思うのである。

今僕は、何も無いと思える平穏な1日に色んな発見をして過ごすようになった。何気ない些細な瞬間に意識を向けるだけで平凡で退屈な一日が、知らなかったことや気付かなかったことに触れられる一日へと変わる。煩わしかった子どもの騒がしさは、体を思いっきり動かすことができるという健康な証拠だと考えられるし、つまらないルーティンになりかけていた炊事は、家族の健康を体の中から支える重要なイベントだと考えられるようになった。おかげで僕にとってのSNSはよい交流手段となっている。

気にとめなければ過ぎ去ってしまうような1日に価値を感じられるかどうかは本人次第なのだ。他人に見せて「俺の一日どうだった?」と評価してもらうものではない。

SNSの間違った使い方のせいで辛い思いやめんどくさい人生になってはいないだろうか?そんな時は自分の大切な一日の価値を思い出してほしい。何も起きない平凡な一日こそ愛おしく思えることができれば、あなたの人生は他人から解放されるはずだ。