やんわりブログ

ブログを生活の一部に

相手の立場になれない理由

先日、机上に数枚のチラシが置いてあり、何の気なしにペラペラとチラシをめくって見ていると、その中の1枚にマイナンバーカード出張申請所のお知らせが入っていた。

我が家はマイナンバーカードを持っていない。理由はみんなと同じで、通知カードで事足りていたから。しかしいつか作らなくてはいけないのであれば、この機会に作っておかないとまた先延ばしにしそうだし、動きやすい今が1番作るのに適しているだろうと、思い立ったが吉日、さっそくマイナンバーカードを申請ずべく正月太りした重い腹...ではなく重い腰を上げたのだった。

チラシによるとまずは予約をしなさいと言う事だったので、記載してあるバーコードを読み取りいざ特設サイトへ。まぁこの時点で行政の作るサイトにあまり期待はしていなかったのだが、案の定の展開でゲンナリすることとなった。

まずサイトの見にくさといったら....。何が見にくいってアクセスした1ページ目にの情報量の多さよ。伝えたい事が多いのは理解できるけど、一気に書かれると順序よく理解することが困難になる。早くも1ページ目にしてマイナンバーカードを作成しようとしている貴重な住民を弾く事に成功している。

さらに1度で3人までしか予約ができないということが申請の最終段階で発覚する。チラシにもサイトにも3人までなど書いてない。4人家族に我が家ははどうするのかと悩んだ挙句、後日電話で問い合わせすることに。回答としては、もう一度同じアカウントで1人分の予約を取ってくださいとのことだったのだが....それ、サイトの注意点に記載するべきなのでは?絶対誰もが引っかかるトラップになってるに違いないし。電話予約が大変混雑しておりますのでネット予約でお願いします!というけれど、こんな質問を受けているからいつまでも電話対応はなくならないんじゃ.....。

これぞ、俗に言う「ザ・お役所仕事」である。

勿論全員とは言わないが、多くの公務員の仕事がなぜこんなにもお粗末なのか。今時の個人店のECサイトのほうが出来が良かったりするのか。僕の狭い視野だけど確実に原因の1つだと、そうだと感じる理由はクレームであると僕は考えている。このクレームというのは「使いにくい、見にくい」という成果物へのクレームでは無い。自分たちが提供した物のせいで利用者が被害を被り、損害を請求されるような事案、つまり「瑕疵」である。瑕疵には責任が伴い、それは必ず上層部まで届く。それを防ぐことが目的となり利用者目線からズレていくのだ。結果利用者の意にそぐわない誰もが不完全燃焼と感じる成果物の完成となる。

でもこうなってもしょうがないと感じることもある。

税金で作る以上は納税者の意にそぐわないといけないが、納税者は生きている日本人全てとなる。そんな国民全員が納得できる万能な仕事なんてできるわけが無い。でも世間は許さないのだ。税金を払っているという立場を利用して隙あらば損害を請求しようとする。それから身を守るので精一杯な公務員。もう最悪な巡回なのだ。

だからもう少し世間の声が建設的になれば公務員の仕事も変わっていくんじゃないかと思う。それは民間企業に向けられる声もそうだ。それはネットでよく見られるコメントに似ている。自己の利益を、承認欲求を満たそうとするばかりに匿名という盾に隠れて無茶を言う。そんな世知辛い世の中じゃなくて、みんなの利益を考えた勇気のある意見が何かを変えていくんじゃないか。

そんな分かりきった事を改めて考えさせられるサイトだった。

 

大人数

おお‐にんずう〔おほ‐〕【大人数】の解説
人数の多いこと。また、多くの人。多人数。おおにんず。

 

4人家族の我が家に親戚が合流して早4日目。親戚家族は6名なので我が家の4名と合わせて10名となり、騒がしさはもう今年1番と言っていいんじゃないか?という域に達している。群れとなった子ども達は集団の影響を受けさも自分は強くなった、偉くなったと過信してしまい、普段では見せない大胆な行動に出てしまっている。まさに怪獣である。「静かにしなさい!」のと言う言葉の効き目は、社畜の正月休みよりも遥かに短く、狭くなった部屋に虚しく響き渡るだけだった。

食事、移動、遊び、睡眠、団欒と言った日常も大人数となると非日常に変わり、どんな出来事にも何気ない瞬間にもいくつもの気づきが生まれた。僕を含めた大人達は子ども達の溢れるエネルギーに、自分も小さかった時はあんなだったなぁと、自身の若い頃を重ねたに違いない。そして子どものころの僕もきっと大人達にそう思われていたんだろう。

僕の小さい頃は今とは?違って、何かしら行事があれば本家に親戚が寄り集まることが多かった。祖父の法事などでは必ず4~5家族集まって祖父を思いつつお互いの家庭の近況報告が行われていた。親戚の集まる日はお寿司やオードブル等がテーブルいっぱいに広がり、親戚のお兄ちゃん達は自分の年代では絶対に知り得ない魅力的で大人な世界を見せてくれた。時には怖い叔父さんに、普段怒られないようなことで怒られたりもしたが、僕にとって大人数を身近に感じる時はいつも親しい誰かに囲まれた幸せな時だった。

しかし今では各家庭との距離も遠く滅多なことでは集まりに顔を出すことはなくなってた。僕は日々生活を送る中で親戚付き合いというものが少し疎ましい存在に思えるようになっていた。それは世界で猛威を振るってるウイルスのせいだけではなく、僕の人生がそうさせていた。離婚や離職など、生きていく中で出来れば避けたいイベント体験を積んだせいだろうか?それとも単に僕が面倒くさがりだからだろうか?どちらにしろ、あんなに大好きだった親戚のお兄ちゃん達とはもう10年近く会っていない。大人数が好きだった僕はもういないのである。

そんな僕でも付き合いをやめたくない家族があって、今でも親交を続けているのが今回も遊びに来てくれたのが実の姉家族だ。姉夫婦には命を助けて貰ったに近い恩があったり、母の病気の治療に必要な臓器移植の件でずっと一緒にいた事もあり、僕にとっては数少ない居心地のよい夫婦だ。お互い適度な距離感でいられるのは子ども達の存在も大きい。会えばもみくちゃなり遊んでくれる従兄弟は僕の子ども達にとってかけがえのない存在なんだと感じる。

僕は今、僕が小さかった頃の怖いおじさんポジションとなり、子ども達と遊んではお行儀の良くない時は叱ったりする。こんな時間が楽しく有意義に感じられるようになってよかったと感じ、ゲームをする子ども達の背中を見ながら親戚付き合いから距離を置いた自分の事をもう一度思い出し考える。きっと楽しく感じられなかったのは、楽しませて貰っている存在から楽しませる存在にならなければいけなかったのに、それに気付かず過ごしていたからでもあるんじゃないかと。当たり前すぎる事に今更気づくなんて情けなさすぎるけど。

人に歴史ありというように僕にも山あり谷ありあったはず。いやあった。そこで得たものもあれば失ったものもある。そんな僕の人生にもう一度昔のような大人数での楽しみを見いだせるかは分からないけれど、少なくとも今ある大人数での付き合いを大事にしていこうと改めて思えた。

 

待ち人来る

本日、ようやく姉家族がわが家へ到着することとなり我が家全員歓喜に沸く。

元旦の暴風雪のせいで我が家の最寄りの空港は閉鎖され、姉家族が搭乗するはずだった飛行機は飛ぶことはなかった。姉は頑張ってくれたらしく遅延便や別便がないか探していたようだが、残念ながらグループラインには無念の従弟の泣き顔がアップされることとなった。こちらも悲しい気持ちで心が埋め尽くされ気が抜けた僕たち夫婦は車にも積もった憎き雪を下した後、やけ酒を飲むことを決意した。

だらだらと観ていた格付けチェックに昔ほどの面白さを感じず、右手に持っているTVリモコンで僕たちの嗜好に合う番組はないかとチャンネルを回す。残念ながら落胆しアルコールの回っている頭の僕たちを慰める聖母のような番組は見つかるはずはなく妻はふて寝。僕はブログに書くことはないかと頭の中を探すけれど、書きたくなるようなことは出てこない。ブログを書くって意識するとだめだなーと改めて実感して無理にやろうとすることをやめる。そして早めの寝床につく。家族全員、明日はきっと飛行機が飛ぶだろうという希望的観測を胸に抱きながら。

そして今日。誰の日ごろの行いが良いのかはわからないけど無事に飛行機は飛ぶこととなった。歓喜に沸く我が一族。子どもはテンションがあがり、嫌いな宿題を自主的に終わらせ、妻は昨日食べるはずだったお節の盛り付けを始める。僕もうれしくこの気持ちをブログに綴ることした。

本日より我が家は、短いけれど喜びに満ちた時間を大切に過ごしたいと思う。

みなさまにも大切な時間が流れますように。

年が明けて

みなさん、明けましておめでとうございます。

今年の末からブログを初めて、ちゃんと更新できていることに少し自信がついています。年が明けてからも毎日ではないにしろ、自分のペースで文章を学びながら書いていきたいと思います。

我が家の元旦の朝を見ていると、子どもは朝からゲームをさせなさいと騒いでおり、折角と思い用意した海老出汁のお味噌汁にも興味はないようで。食事を終えたらいつも通りワチャワチャしており、子どもから新年を感じることはありませんでした。でもよく考えれば新年を感じさせてくれるものとは何でしょうね?カレンダー?テレビの特番?お節?身の回りで起きている現象の中で、古くから引き継がれている習慣だけがお正月を感じさせているだけで、目に見える景色や時間の流れはいつも通り。丁寧に育てている観葉植物も青々としてくれているだけで、特別なものはありません。1秒が積み重なり1年を迎える。ただそれだけなんですね。そんな時間の流れを退屈だなー、と思わずに幸せに感じられる人生にしていきたいです。

そしてこんなに平凡で退屈な朝を新年の1日として迎えられたことに、家族への感謝でいっぱいです。

今年もどうぞよろしくお願いします。

ソーシャルネットワークサービス

僕もよくやっていたSNS。表面上は特別なものはない僕でも「いいね!」を貰えると、自分が認められた気がして嬉しくなり何かしらネタを探しては投稿していた。そのたびにちょくちょくと携帯を触ってアプリを開いては「いいね!」の数に一喜一憂していた。今は自分にとって無駄と思えたり、不要だと思える情報をシャットアウトする事で、頭の中が整理できるとネットで見つけた情報を鵜呑みにしてアプリケーションを開かないでいる。

また、そうやって大衆の群がるSNS断ちを決行できた自分が特別な存在なきがして少し高尚な気分に浸り、そしてSNSをやっている人を少し小馬鹿にしていた。

SNSの走りであるFacebookは元々大学内の学生が交流を深める為に作られという。本来の使い方で言えば、人々の交流を促進させ価値を共感するためのツールのように思える。しかし現在のSNSは、自信がある瞬間、富がある瞬間、幸福がある瞬間、悦にひたっている瞬間、自分が一番輝いている瞬間のみが多くアップロードされ、不特定多数から貰えるいいね!で承認欲求を満たす為の道具になっている。

そんなSNSから距離を置けたことに当時の僕は価値を覚えていた。

しかしどうだろう、SNSを辞めた僕がどんな日々を過ごしているか思い返してみると、特別なことがない日常をつまらないと思い込み、楽しい何かが起こる可能性が高い週末を首を長くして待っているではないか。そして楽しく週末を過ごせばまたつまらない日常が早く過ぎることを願っている。

もしかしてこの状況は、形は違えど本質的には僕が小馬鹿にしていた「SNS」をやっている時と変わらないのではないか?他人に見せていないだけで、つまらないと決め込んだ1日1日を無駄にしてはいないか?

僕はこの疑問から、現在のSNSでの弊害は承認欲求を得るために大切な毎日を軽視しすぎるようになったことじゃないかと考えた。もちろん自分をランク付けしてもらおうと他人から価値をつけてもらう人々も問題だ。自分にランクなんてないし、価値は自分で創造するものである。しかし有限である時間を早送りしてでも価値があると信じ込んでいるSNSに使える時間だけに注力するのもいかがなものかと思うのである。

今僕は、何も無いと思える平穏な1日に色んな発見をして過ごすようになった。何気ない些細な瞬間に意識を向けるだけで平凡で退屈な一日が、知らなかったことや気付かなかったことに触れられる一日へと変わる。煩わしかった子どもの騒がしさは、体を思いっきり動かすことができるという健康な証拠だと考えられるし、つまらないルーティンになりかけていた炊事は、家族の健康を体の中から支える重要なイベントだと考えられるようになった。おかげで僕にとってのSNSはよい交流手段となっている。

気にとめなければ過ぎ去ってしまうような1日に価値を感じられるかどうかは本人次第なのだ。他人に見せて「俺の一日どうだった?」と評価してもらうものではない。

SNSの間違った使い方のせいで辛い思いやめんどくさい人生になってはいないだろうか?そんな時は自分の大切な一日の価値を思い出してほしい。何も起きない平凡な一日こそ愛おしく思えることができれば、あなたの人生は他人から解放されるはずだ。

 

ゲームへの思い

コロナ禍で自宅に居る時間が長くなり見直される家での過ごし方。オンライン飲み会といった新しいコンテンツが生まれる中、再注目を浴びたの過ごし方にゲームがある。先日集合住宅の我が家にもサンタが来たらしく、任天堂Switchとソフトを2本置いていってくれた。子ども達がゲームに夢中になっている姿を見て、昔僕も夢中になってゲームをやっていた事を思い出した。

 

 

僕はゲームが大好きだった。保育園の時は兄のやっているカプセル戦記を訳もわからずやっていた。それから時代はスーパーファミコンに。初めて買ったドラクエⅣは主人公がかなり辛い人生を送る物語で有名。敵の強さのバランス、登場人物の個性、結婚・出産というシステム。どれも素晴らしくのめり込んだ事は言うまでもない。兄に冒険の書を消されてもめげずに最初からチャレンジした。中学生になるとプレイステーションという化け物が繰り出すソフトに酔いしれた。特に3DになったFF(エフエフね!)に驚愕した。そして出会うゼノギアス。1日10時間やり続けるほどにハマった。

そんなゲー厶づくしの学生時代が終える頃、僕のゲーム熱は昼の空気が夜の空気に変わるように少しずつ冷め始めた。それから現在に至るまで、学生時代のようにゲームにのめり込むことは無くなった。大人になるとゲームを楽しめなくなる側の人だったのだ。

今もゲームをしていないかと言うとそうでは無い。スマホゲームやPCゲームを少しはやっている。ただ圧倒的に昔のゲームの方が楽しいのだ。もちろん思い出補正はガッツリかかっていると思う。しかし課金さえすれば無敵になれるソシャゲや少しネットで検索すれば出てくる攻略情報。YouTubeにはゲーム実況が流れ、自分で切り拓くというゲーム本来の楽しみ方はどこに行ったのか。

今のゲームの構図は、簡単に出来る→簡単だから練習しない→練習しないから弱い敵に負ける→簡単なゲームの筈なのにクリア出来ない→自尊心が砕ける→自尊心を保つために本気じゃないと誤魔化すor課金して強くなる、という自己研磨をする事が難しい生産性の少ないゲームだ。

一方昔のゲームは、難しくて覚える必要がある→必然的に練習する→練習するからレベルの合う敵には負けない→負けないから弱い敵に飽きる→強い敵にチャレンジしたくなる→更に実力が着く、という成長する為必要なものを教えてくれるゲームだった。

だけど...もしかするとそんな楽しみ方がもう既に古いのかもしれない。今は、何よりも効率的に、誰よりも圧倒的にゲームをする事がスマートなのかもしれない。自分と向き合うゲームをする環境も必要ないのかもしれない。

全て対外向けに結果を示す為の、自己顕示欲を満たす為のゲーム。そんなゲームを現代社会の縮図だと感じているのは僕だけだろうか。

いつの時代も「楽しい」を生み出してきてくれたゲーム。時代や形は変わっても、楽しいことを感じさせてくれるゲームであってほしいと願う。そして現代のゲームを楽しむ子ども達を見て、純粋に物語やシステムを楽しむという事を感じて欲しいと思う僕だった。

夢の中へ

みんなは夢を見ますか?見た夢を憶えていますか?

僕は最近健康のために早寝をするようになったんだけど、普段遅く寝ている時より夢を見る。多分早く寝た分レム睡眠とノンレム睡眠の回数が増えたからじゃないかと思い気にしないでいるが、夢を見るような浅い眠りが増える事で、健康に近づいているのかは不明。

先日見た夢には久しぶりにもっくんが出てきた。そうシブがき隊世代のもっくん。もちろん面識はない。メディアに多く露出しないにしろ、映画「おくりびと」でもっくんを見てカッコイイと思ったのがきっかけだろうか。この夢を見るのは3度目くらいで、内容は断片的にしか記憶してないけど何故か印象的で好き。この夢は夢にありがちな何も無い光景から地下に続く階段がいきなり姿を現すところから始まる。その細く長い階段を降りたところに白い扉があり、開くと狭い喫茶店のような空間が広がる。入って右側に位置するカウンターの向こうに憧れのもっくんはいる。ただ、簡単にもっくんには会えない。白い扉を開けると後頭部辺りを狙って毒の塗ってある針がどこからか数本発射されるのだ。命中した記憶はないんだけど、毒針だと分かっているので過去に毒針をくらって何らかの症状が出ていると思われる。そこをクリアしてもっくんとの様々なストーリーが繰り広げられるのだが、残念ながらそのストーリーは欠けた方の記憶に刻まれている。僕の脳みそでは、目覚めた瞬間に「もっくん、地下、毒針」を記憶することが限界だった。

過去にも単発で終わらずに何度も見る夢はあった。誰もいない高層ビルの立ち並ぶ場所で少女に追いかけ回される夢は3日連続。一見ご褒美ともとれる内容だけど、ずっと俯いているせいで顔が見えない上に全身が黒いというほぼお化けである。そして何処までも追いかけてくる。ビルの屋上に逃げると、隣の同じ高さのビルの屋上から飛んできたり、地下鉄のトンネルぼような場所に逃げ込んでもオリンピック選手に負けないスピードで追いかけてくる。く~る~♪きっと来る~♪じゃなくて絶対に来る。恐怖の追いかけっこ。あの時はびっくりした。

思い返してみると他にも沢山怖い夢を沢山見ている。そして意外と覚えているもので、小学生の時に見た、追いかけられて殺される夢でさえ覚えている。そんな怖い夢を見ることは嫌な事だと思っていたけれど、案外楽しんでいるのかもしれない。感覚はリアルでも現実とは違うって確信のある夢に、ゲームのような楽しみを見出している。僕にとっての早寝するメリットは意外なところにあるのかもしれない。

早く寝た分携帯やテレビは見ることができないけれど、朝早く起きることの苦しみから逃れられ、オマケに夢も見ることが出来る。思いのほか夜の時間が惜しい!とは思わない。そうやって実は不要だった時間を上手く使って、怖くて楽しい脳内エンターテインメントを見るのも悪くない。朝起きると頭もスッキリしているので夢の悪影響はないと考えられるし、早寝の効果も出てきているとも考えられる。

早寝のメリットが思いのほか多くあることを体験した僕は、これからも早寝をする。みんなも早寝やってみない?